四国のロデオ大会 [kayak歴]
四国のフリースタイルカヤック大会について
私の記憶なので、間違っていることもあると思いますが。
四国での初のロデオ大会は、94年の小歩危の大滝で実施されたジャパンオープン(第2回)だった。
この頃、高知にいたので何人かで見に行った。
外国人選手は、ジム・スナイダー、ヤン・ケルナーとかが出てたような気がする。
ヤン・ケルナーはジャッジだったかも?
ジャッジは、点数を書いた丸い札を上げていた。
7.5とか8とか得点を書いていた?
翌年は、小歩危の鮎戸の瀬で実施(これが第3回)
出場するには、理事の推薦が必要だった。予選があり、現在某ラフト会社のT氏が1位、私が2位で本戦に出場となった。(予選は、大歩危通称昼飯の瀬)
この時来ていた。ダン・ガベール、シェーン・ベネディクト、ジム・グロスマンがジャッジだった。
(偶然だが、シェーンは5月の連休にナンタハラへ行った時のガイドでした。)
ジムはハンドパドルで鮎戸のキーパーへ入ってカートホイールをしていた。
ちなみにダウンの時は森囲いのナイアガラにもハンドで入って遊んでいました。
使用艇は、順にハリケーン、ピロエットSS、フランケンシュタイン。
この時、初めて見ました。カートホイール。
ダンガベはでっかいハリケーンを豪快にバッコンバッコンと回していました。
シェーンはスムーズな回転で回していました。
ダンガベは、凄い迫力でした。
ジムはハンドパドルで、私より遥かにうまかった。
確か鮎戸の瀬を「fish door」と説明してましたネ。
第4回は、大滝でした。水は若干少なめ。
この時から、出場条件は無く誰でも参加可能となりました。
クレイ・ライトが優勝、ケン・ホワイティングが2位。
水が少なめで、カヤックのバウ(先端)を岩に当て、バウを折る選手が何人かいました。
この頃は、艇が長かったので良かったですが、今の短い艇なら足を怪我しそう。
何人かで出場しました。
四国吉野川は非常に良い川だけど、遠いという意見が多く、翌年から四国では大会が無くなるという情報を耳にし、四国でロデオ大会をと働きかけました。
この頃のサーキット戦は、地方のショップが主体となって大会を実施してました。
徳島のショップにお願いして四国ロデオ実行委員会を立ち上げたのですが、代表は自分でやることになりました。
個人(カヌーで商売している以外)で代表をやったのは、日本で私が初めてだと思います。
97年、第1回四国ロデオ大会を開催しました。
小歩危の鮎戸の瀬での実施でした。
協力として徳島・高知のショップに入ってもらいました。
鮎戸の瀬荘へ大会開催のお願いに行って、ダウンリバーの苦情を聞き、鮎戸の瀬、通行のパンフを作って、配ったりといろいろありました。大変でした。
今はもうありませんが、山城町の公民館を借りて宿泊所として使用しました。
大会を実施する上で一番必要なものはジャッジです。それは今も同じです。
ジャッジは、ショップから依頼してもらい、モ××ルから派遣してもらうことになっていました。
大会規定として公認ジャッジが最低一人は必要でした。
徳島のショップのT氏は、「頼んでいるから」
高知のショップのY氏は「誰々が来るから。」と言っていました。
徳島・高知のショップの二人が同じことを言うので安心していました。
大会当日、開会式を川口駐車場で実施。
だが、待っても待ってもジャッジが来ません!
徳島のショップのT氏が電話で確認して、「手違いで来ない。」
高知のショップのY氏は「勘違い。」と簡単に言ってくれました。
本当に サラッと言ってくれたのです。
駐車場から突き落としてやろうとの衝動が・・・(10年以上も前のことです)
で、急遽出場を取り止めジャッジをすることにしました。
公認ジャッジ1名+ジャッジ2名の予定でしたが、公認ジャッジなしの3名での実施となりました。
この時、公認ジャッジを持っているH氏がbokeに遊びに来ていたので、お名前を拝借してどうにか切り抜けました。
本人に了解を取り、カッコ書きで名前を使わせていただきました。
他にもいろいろ小さなトラブルはありましたが、ジャッジの件の衝撃が大きすぎてよく覚えていません。
鮎戸の瀬は、右岸がメインの会場となるので、ラフトを準備し渡しました。
左岸側の崖の上から観戦している人が落ちないかとかの心配もしました。
第2,3回とは、小歩危2段の瀬で開催しました。
上にある小歩危自動車さんにお願いして、駐車場をお借りしました。
第1回のこともあるので、公認ジャッジの資格を取得しました。
確か、中部の大会まで取りに行きました。
これ以降は、大会に出ることは少なくなり、ジャッジをすることが多くなりました。
ただ、ジャッジの真っ最中に、みんなが何から何まで聞いてくるのです。
あれは、どうする。これはと・・・
ジャッジをやっていてもいろいろやることがあり気が休まる暇はありませんでした。
サーキット戦とローカル戦を同時にやったりもしました。
エントリー費もそれぞれ2千円と500円で実施しました。
この頃から、大会の運営は選手主体で実施しないとダメだなと思っていました。
四国ロデオを主催する私と出場選手の違いはどこにあるのか?
一線を越えて主催者側に来たがために苦労ばかり、選手からの苦情、ああしろこうしろ、これはおかしい。
「じゃ、お前がやれ!」の一言がどれだけ言いたかったか!!!
協力してくれる選手もたくさんいましたが、たぶん、本当の大変さは理解できてないと思います。
どうにか、3回は続けました。
1回でもうやめようと思いましたが、よく3回も頑張れたと思います。
その後、K山さんが、ロデオ大会の主催をやるということで、翌々年(2001年)から、本山町アドの瀬でフリースタイルの大会が復活。
この頃、ホワイトウォーターロデオからフリースタイルへ名前が変更となりました。
私が大変だったので、代表は座っているだけでいいくらいの思いでサポートしたつもりですが、やはり代表は
ご苦労されたと思います。
この頃の四国のサポート体制は、結構充実していたと思います。
スタッフも20人以上いたと思うし、ジャッジの講習会を四国で開催してもらったり。
ジャッジも4,5人で上下2人を切ってまん中を採用するとかもやりました。
(質より量でカバーしたとも言います。)
今は、スタッフも転勤とか家庭の事情で半分以下となってしまいました。
仕方がないことかもしれないが、ちょっと淋しさを感じますねェ。
一時期、四国では本山大会(アド)と大歩危大会(3段)の2大会実施している時期もありました。
(大歩危大会は、リバーランさんが主催してました)
で、5,6回K山代表で実施して、今の柿本さんへと引き継がれています。
「shadowさんの倍くらい(代表を)やったのでもう辞めてもいいでしょう」と語ってました。
やはり大変だったのでしょう!
今も、大会運営に対しては最大限のサポートをしようと心掛けていますが、これがなかなか難しい。
まぁ、15年もやったのだからそろそろ後進に譲って引退したいというのが本音ですが、やる人が出てこない。
やる気さえあれば、できると思いますが・・・
総裁ももう10年くらいにはなるだろうし、二人揃って引退しますと言ってみたい(笑)
今の協会(JFKA)の皆さまのご苦労には、頭が下がります。
現地まで出向いての大会運営を含めての全大会の運営、これも新生JFKAになってから始まっています。
がんばろうJFKAです。
選手のみなさん、協会事務局の方々のご苦労を考え、最大限のサポートをしましょう。
小さな手違い・トラブルなんかは、ゴチャゴチャ言わずに、気付いたら自分でカバーしないさい。
協会の方々が疲労疲弊しないように絶大な支援をするべきです。
なかなか、代わりの人はいませんよ!
私の記憶なので、間違っていることもあると思いますが。
四国での初のロデオ大会は、94年の小歩危の大滝で実施されたジャパンオープン(第2回)だった。
この頃、高知にいたので何人かで見に行った。
外国人選手は、ジム・スナイダー、ヤン・ケルナーとかが出てたような気がする。
ヤン・ケルナーはジャッジだったかも?
ジャッジは、点数を書いた丸い札を上げていた。
7.5とか8とか得点を書いていた?
翌年は、小歩危の鮎戸の瀬で実施(これが第3回)
出場するには、理事の推薦が必要だった。予選があり、現在某ラフト会社のT氏が1位、私が2位で本戦に出場となった。(予選は、大歩危通称昼飯の瀬)
この時来ていた。ダン・ガベール、シェーン・ベネディクト、ジム・グロスマンがジャッジだった。
(偶然だが、シェーンは5月の連休にナンタハラへ行った時のガイドでした。)
ジムはハンドパドルで鮎戸のキーパーへ入ってカートホイールをしていた。
ちなみにダウンの時は森囲いのナイアガラにもハンドで入って遊んでいました。
使用艇は、順にハリケーン、ピロエットSS、フランケンシュタイン。
この時、初めて見ました。カートホイール。
ダンガベはでっかいハリケーンを豪快にバッコンバッコンと回していました。
シェーンはスムーズな回転で回していました。
ダンガベは、凄い迫力でした。
ジムはハンドパドルで、私より遥かにうまかった。
確か鮎戸の瀬を「fish door」と説明してましたネ。
第4回は、大滝でした。水は若干少なめ。
この時から、出場条件は無く誰でも参加可能となりました。
クレイ・ライトが優勝、ケン・ホワイティングが2位。
水が少なめで、カヤックのバウ(先端)を岩に当て、バウを折る選手が何人かいました。
この頃は、艇が長かったので良かったですが、今の短い艇なら足を怪我しそう。
何人かで出場しました。
四国吉野川は非常に良い川だけど、遠いという意見が多く、翌年から四国では大会が無くなるという情報を耳にし、四国でロデオ大会をと働きかけました。
この頃のサーキット戦は、地方のショップが主体となって大会を実施してました。
徳島のショップにお願いして四国ロデオ実行委員会を立ち上げたのですが、代表は自分でやることになりました。
個人(カヌーで商売している以外)で代表をやったのは、日本で私が初めてだと思います。
97年、第1回四国ロデオ大会を開催しました。
小歩危の鮎戸の瀬での実施でした。
協力として徳島・高知のショップに入ってもらいました。
鮎戸の瀬荘へ大会開催のお願いに行って、ダウンリバーの苦情を聞き、鮎戸の瀬、通行のパンフを作って、配ったりといろいろありました。大変でした。
今はもうありませんが、山城町の公民館を借りて宿泊所として使用しました。
大会を実施する上で一番必要なものはジャッジです。それは今も同じです。
ジャッジは、ショップから依頼してもらい、モ××ルから派遣してもらうことになっていました。
大会規定として公認ジャッジが最低一人は必要でした。
徳島のショップのT氏は、「頼んでいるから」
高知のショップのY氏は「誰々が来るから。」と言っていました。
徳島・高知のショップの二人が同じことを言うので安心していました。
大会当日、開会式を川口駐車場で実施。
だが、待っても待ってもジャッジが来ません!
徳島のショップのT氏が電話で確認して、「手違いで来ない。」
高知のショップのY氏は「勘違い。」と簡単に言ってくれました。
本当に サラッと言ってくれたのです。
駐車場から突き落としてやろうとの衝動が・・・(10年以上も前のことです)
で、急遽出場を取り止めジャッジをすることにしました。
公認ジャッジ1名+ジャッジ2名の予定でしたが、公認ジャッジなしの3名での実施となりました。
この時、公認ジャッジを持っているH氏がbokeに遊びに来ていたので、お名前を拝借してどうにか切り抜けました。
本人に了解を取り、カッコ書きで名前を使わせていただきました。
他にもいろいろ小さなトラブルはありましたが、ジャッジの件の衝撃が大きすぎてよく覚えていません。
鮎戸の瀬は、右岸がメインの会場となるので、ラフトを準備し渡しました。
左岸側の崖の上から観戦している人が落ちないかとかの心配もしました。
第2,3回とは、小歩危2段の瀬で開催しました。
上にある小歩危自動車さんにお願いして、駐車場をお借りしました。
第1回のこともあるので、公認ジャッジの資格を取得しました。
確か、中部の大会まで取りに行きました。
これ以降は、大会に出ることは少なくなり、ジャッジをすることが多くなりました。
ただ、ジャッジの真っ最中に、みんなが何から何まで聞いてくるのです。
あれは、どうする。これはと・・・
ジャッジをやっていてもいろいろやることがあり気が休まる暇はありませんでした。
サーキット戦とローカル戦を同時にやったりもしました。
エントリー費もそれぞれ2千円と500円で実施しました。
この頃から、大会の運営は選手主体で実施しないとダメだなと思っていました。
四国ロデオを主催する私と出場選手の違いはどこにあるのか?
一線を越えて主催者側に来たがために苦労ばかり、選手からの苦情、ああしろこうしろ、これはおかしい。
「じゃ、お前がやれ!」の一言がどれだけ言いたかったか!!!
協力してくれる選手もたくさんいましたが、たぶん、本当の大変さは理解できてないと思います。
どうにか、3回は続けました。
1回でもうやめようと思いましたが、よく3回も頑張れたと思います。
その後、K山さんが、ロデオ大会の主催をやるということで、翌々年(2001年)から、本山町アドの瀬でフリースタイルの大会が復活。
この頃、ホワイトウォーターロデオからフリースタイルへ名前が変更となりました。
私が大変だったので、代表は座っているだけでいいくらいの思いでサポートしたつもりですが、やはり代表は
ご苦労されたと思います。
この頃の四国のサポート体制は、結構充実していたと思います。
スタッフも20人以上いたと思うし、ジャッジの講習会を四国で開催してもらったり。
ジャッジも4,5人で上下2人を切ってまん中を採用するとかもやりました。
(質より量でカバーしたとも言います。)
今は、スタッフも転勤とか家庭の事情で半分以下となってしまいました。
仕方がないことかもしれないが、ちょっと淋しさを感じますねェ。
一時期、四国では本山大会(アド)と大歩危大会(3段)の2大会実施している時期もありました。
(大歩危大会は、リバーランさんが主催してました)
で、5,6回K山代表で実施して、今の柿本さんへと引き継がれています。
「shadowさんの倍くらい(代表を)やったのでもう辞めてもいいでしょう」と語ってました。
やはり大変だったのでしょう!
今も、大会運営に対しては最大限のサポートをしようと心掛けていますが、これがなかなか難しい。
まぁ、15年もやったのだからそろそろ後進に譲って引退したいというのが本音ですが、やる人が出てこない。
やる気さえあれば、できると思いますが・・・
総裁ももう10年くらいにはなるだろうし、二人揃って引退しますと言ってみたい(笑)
今の協会(JFKA)の皆さまのご苦労には、頭が下がります。
現地まで出向いての大会運営を含めての全大会の運営、これも新生JFKAになってから始まっています。
がんばろうJFKAです。
選手のみなさん、協会事務局の方々のご苦労を考え、最大限のサポートをしましょう。
小さな手違い・トラブルなんかは、ゴチャゴチャ言わずに、気付いたら自分でカバーしないさい。
協会の方々が疲労疲弊しないように絶大な支援をするべきです。
なかなか、代わりの人はいませんよ!
僕がコメントするのもおこがましい限りではありますが・・・
shadowさんををはじめとする偉大なる先人(失礼しました!現役バリバリですねっ)のみなさんの営々たる尽力の継続のおかげで、
現在の日本におけるフリースタイルカヤックコンペがあるんですよね。
ある意味「歴史の教科書」的に拝見させていただきつつ、感謝の気持ちが改めてこみ上げてきました。
超微力ながら現・JFKA運営に携わる一人として厚く御礼申し上げます。
そして今後ともご協力、ご助言を遠慮なくどうぞよろしくです!
by いばさく (2011-07-12 01:33)
関東大会、お疲れさまでした。
ちょっと、ほめられ過ぎですね。
こちらへ来られるまでには、ご一緒できるよう故障修理しておきます(笑)
by shadow (2011-07-12 23:49)